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お知らせ

ピアノの音が誰かの心に届くまで──着物と共に歩む祈りの日々

札幌市南区芸術の森・石山東地区で、スタインウェイピアノ教室を主宰する、西岡裕美子です。

音楽を奏でるということは、
ただ音を並べるのではなく、
その奥にある「想い」や「願い」を音に託すこと──。

私がピアノに出会ってから長い歳月が経ちました。
けれど、その本質はずっと変わらず、
誰かの心に、静かに、深く届くような音を探し続けてきました。

そして今、私は「日本の美しさ」と「心の祈り」、
このふたつを軸に、音楽を紡いでいます。

第一部では、クラシック音楽に日本の要素を重ね、
着物というもうひとつの美の象徴とともに奏でる表現を。
第二部では、もっと内面的な祈りと響きをテーマに、
音楽が心と命にどのように寄り添うのかを、綴らせていただきます。

目次

日本の音、日本の美──クラシック音楽と着物に込めた想い

クラシック音楽をメインに演奏しています。
中でも、日本の名曲をテーマにした、美しい旋律がピアノ用にアレンジされた作品に触れるたび、
長く愛されてきた音楽が、形を変えながらも受け継がれていくことの素晴らしさを感じます。
こうした音楽を、これからの時代にもつないでいけたら──
そんな想いを胸に、私はピアノと向き合っています。

そして、私にとって「着物」で演奏することもまた、大切な表現のひとつです。
着物は日本の文化の象徴でありながら、現代の暮らしの中では少しずつ距離が生まれているのも事実。
でも、時代に合った形で受け継ぐためには、まず「着てみよう」と思った人が、実際に袖を通すこと。
そこからすべてが始まるのではないかと感じています。

音楽と着物を通して、日本の美しさや、日本人であることの誇りを、少しでも感じていただけたら。
そんな願いを込めて、これからも演奏を続けていきます。

祈りが音になるとき──私がピアノを続ける理由

祈りが音になるとき、私は生きていると実感します。
私は特別に技術があるわけではないし、大きな手や強靭な精神力があるわけでもない。
世の中には、私よりもずっと上手なピアニストがたくさんいます。
そんな中で、私がピアノを弾く意味があるのだろうか?
ずっとそんな問いを抱えながら、私は生きてきました。

けれど、最近ようやく気づいたことがあります。
私には「祈る」という表現がある。
大切な人を想い、その人の幸せや回復を願いながら音を紡ぐこと──
それが、私にしかできない音楽のかたちでした。

祈りを込めて演奏すると、音がまるで命を持ったように輝き始めます。
それは、私自身の生命力そのもの。
SNSでの発信とは違う、もっと深く、もっと強い「発信」が音楽にはあると知りました。
そしてその音が、人の心に届き、自分自身も癒してくれることを、私は何度も経験してきました。

私のレッスンルームは、いつしか「祈りの場」になっていました。
心が音によって浄化され、軽くなっていく。
焦りや不安、できないことへの苛立ちも、祈ることで音に変わり、優しさへと変容していくのです。

ピアノを続けてきた意味。
その問いの答えは、ようやく見つかりました。
祈り、奏でること。
それが、私が演奏を続ける理由です。

おわりに

音楽と着物、そして祈り──
一見異なるように見えるこれらは、すべて「日本人として生きる私」の中で、ひとつに結びついています。

祈りは、目の前の人にも、遠く離れた人にも届くもの。
言葉にできない想いを音に託し、その人の幸せや癒しを願うとき、
静寂を打ち破った音が音楽となり、確かな力を持って、その想いを運んでくれます。

私はスタインウェイのピアノに助けられながら、
ただ優しく寄り添うだけでなく、
ときに魂を揺さぶるような強さをもって、祈りを響かせています。
その音は、私自身の内にある「生きる力」でもあり、
誰かに手を差し伸べたいという「願いの力」でもあるのです。

私の願いは、最高の音を出し、思い通りの演奏をすることです。
祈りを乗せて演奏することで、それが実現します。
不思議なことです。なぜかわかりませんが(もし理由をご存じなら教えてください)。
私の願いが叶うと同時に、私の大切な人たちの願いも叶ってほしいと強く願っています。

私にできることは、音を通して祈ること。
たとえ姿は見えなくても、遠く離れていても、
音はいつか、誰かの心に届いてくれると確信しています。

だからこそ、私はこれからも、ひとつひとつの音に祈りを込めて、演奏を続けていきます。